講師プロフィール

講師  木下 裕美


東京都出身。5歳よりピアノを始める。

東京都立芸術高校音楽科を経て、東京学芸大学教育学部芸術課程音楽専攻を卒業。

カワイクラシックオーディション第6回ピアノ独奏部門入賞、第7回ピアノ伴奏部門優秀賞受賞。

1999年、東京にてソロリサイタル開催。沖縄国際音楽祭、蓼科高原音楽祭等にて室内楽の研鑽を積む。

中学・高校教員免許取得。ヤマハ演奏グレード・指導グレード4級取得。PTNA指導者会員。

うしく音楽家協会会員。ユーオーディア会員。EQWELドレミコース認定講師。


大学在学中よりピアノ教室主宰。1999年より茨城県牛久市に在住。

伴奏、アンサンブルを中心に演奏活動も行っています。

現在、ジャスミン音の庭室内楽クラスにて受講中。

これまでに、ピアノを長久保美都里、石川幸枝、外山準、須貝久子、故木村潤二、蓼沼明美の各氏に師事。

また、声楽を故佐藤幹一、指揮法を故村方千之の各氏に師事。

ピアノとの出合い…


5歳の頃、幼稚園からの帰り道。


母に「何かやりたいことはないの?」と聞かれて、即座に「ピアノ」と答えた私。

ピアノを習い始めるきっかけでした。


でも、後々母に聞いても、そんなことを言った覚えはないと言います。

当時、家を買ったばかりで、お稽古事をさせる余裕もなかったから、そんなこと聞くはずもないと。

多分、母は「今日家に帰ったら何をしたい?」くらいの意味で言ったのでしょう。

何を勘違いしたのか…

でも、この勘違いがなかったら、とっさにピアノと答えなかったら、今の私はないのかもしれません。


親族に音楽をやる人間は一人もいませんし

当時私はピアノと接点などなく、どうしてピアノと答えたのか、自分でもわかりません。

ただ、父がクラシック好きで、よく家でレコードをかけていました。

赤ん坊の頃の私のお気に入りは、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」

それを聴かせると、どんなに泣いていても泣き止んだとか。

母もよく童謡のレコードをかけてくれたので

音楽が好きになる種は撒かれていたのかもしれません。


母は、私の突然の願いに戸惑ったようですが

自分も子どもの頃オルガンやピアノがやりたかったのに

習わせてもらえなかったのを残念に思っていたので、

私にはやりたいことをやらせたいと、すぐにピアノを習わせてくれました。


でも、子どもの言うことだし、いつまで続くかわからないからと(親は皆同じ気持ちでしょう)

はじめはピアノを買ってもらえず、家にあったおもちゃのピアノで練習を始めました。

とっくに処分されてしまい、そのピアノはないのですが、微かな記憶にあるのはこんなピアノ。

お稽古のはじまりと 5歳の決心


念願のピアノのおけいこが始まると、私は一気にピアノにハマります。

当時は入門教材と言えばバイエル。はじめのうちは延々と片手の課題が続きますが

幸い楽譜を読むことに苦労しなかったため、3ヶ月後には両手の曲に進み、

おもちゃのピアノでは鍵盤が足らなくなって、アップライトピアノを買ってもらいました。



今の私からは誰も想像できないと思うのですが

幼少期の私は扁桃腺持ちでしょっちゅう39度40度の高熱を出し、

月に一度は幼稚園を休むような子どもでした。

その上、近所にはまだ家もまばらで、友達がいなかったし

幼稚園でもひどい人見知りで、一言も発せずに帰ってくるような子どもで

「ピアノがお友達」状態でした。



ピアノを始めて半年もしないうちに

「私はピアノを仕事にするんだろうな」と思うようになっていました。

それからずっとブレずに夢を追い続けて、今の私がいます。

楽しかったレッスン


最初に通っていたピアノ教室は、母の友人が経営していた教室で

1回のレッスンが30分でしたが、

どんどん曲を持って行くので時間が足りず

講師の先生のご好意で、先生のご自宅に伺ってレッスンしていただけるようになりました。

先生は当時まだ音大生で、笑顔の素敵なチャーミングな先生でした。

まだまだ幼くて未熟なところばかりだったと思うのですが

どんどん曲を進ませて下さるし、優しくて大好きな先生でした。

電車に30分乗って行くのは大変でしたが

母がいつも差し入れのケーキを買って、レッスンの途中で一緒に食べるのが

嬉しかった記憶があります。

小学校高学年のころ


小学校2年生の時に、先生のご事情で、別の先生に変わることになりました。

「今度の先生は私より厳しいから頑張ってね」と言われたのですが

実際、基礎をしっかり丁寧に教えて下さる先生で

なかなか進ませてもらえなくなってしまいました。

4年生くらいまでは体が小さかったし、技術が不確かだったので仕方なかったのですが

ツェルニー40番は2周、バッハのインベンションやシンフォニアも半分くらいは2度取り組み、

子どもには辛く、モチベーションが下がり気味の小学校後半でした。

成長期だったのに、練習がおざなりだったのが、今でも悔やまれます。

あの頃、もう少し頑張っていれば、

手がもっと大きくなったかも…技術も身についたかも…

内向的な性格と弱い体を変えたい!


ただ、この頃私には別の変化もありました。


小学2年生の終わり頃。クラス替えが近づき

私は、クラスの中で友達を作れなかったことを後悔していました。

「こんな後悔はもうしたくない。

黙って待っていても友達は出来ないから

3年生になって新しいクラスになったら

友達になりたい子には自分から声をかけよう!」と一大決心をしました。

そしてその決心通り、3年生になった私は

人が変わったように明るく振る舞い、友達を作るようになりました。

担任の長身の先生のようになりたくて、嫌いな牛乳も克服しました。

心持ちが変わったせいか、体が丈夫になって背も伸び始めました。

学校が楽しくて、人を笑わせるのが大好きな子どもになりました。

ピアノはちょっとサボり気味だったかもしれませんが

心身の成長のためには必要な時期だったのかなと思います。

アンサンブルへの関心


小学校5・6年の時、音楽部という器楽合奏をするクラブに入りました。

中学では吹奏楽をやりたくて

ピアノの先生には「中学では部活に入らずピアノに専念するくらいでなければ音大には行けない」と反対されましたが

押し切って入部してしまいました。

この頃から、アンサンブル好きの兆候があったのだと思います。

フルート希望で入部したけれど競争率が高く

テナーサックスに割り当てられました。

テナーサックスは移調楽器で、ドの指使いをするとシのフラットが出ます。

絶対音感&固定ドの私ははじめは本当に戸惑ったのですが

気がつけば頭の中で即座に変換して楽譜を読めるようになり

今でも長2度下げる移調は苦になりません。

テナーサックスは、音域的には中音〜低音域ですが

合奏の中で和音の響きの中に埋もれる心地よさを味わえる楽器でした。

そして、沢山の音を出せるピアノと違って、ひとつの音しか出せないわけですが

サックスには時々とても素敵なメロディーがまわってくることがあり

合奏の中で一本のメロディーに心を込めて演奏するという経験ができたことは

その後の音楽へのアプローチに大きく影響しました。

本格的なレッスンのはじまりと 高校進学


ピアノの方では、中学2年になる時に先生を変わることになり

いよいよ音大の先生から専門的なレッスンを受けることになりました。

大変厳しい先生で、6年間師事しましたが叱られてばかりでした。

でも、音楽の基礎を徹底して叩き込んでくださいました。


音楽高校の受験を勧めて下さり、第一志望の高校は落ちてしまいましたが

都立芸術高校に進学が決まりました。

受験の手続きか何かで高校に行った時、卒業演奏会のプログラムが置いてあって

管弦楽器や声楽専攻の生徒の伴奏者として、ピアノ科の生徒の名前がありました。

「そうか!高校に入ったら伴奏の機会があるのか!」

一気に期待が高まりました。

吹奏楽も楽しかったけれど、専門のピアノでアンサンブルがしたい!

高校生活


入学後は、クラスメイトに「伴奏をやりたいのでよろしく!」と声をかけまくり、

だんだん伴奏を頼まれるようになりました。


この頃、「私は伴奏で生きて行こう」と決心します。


ソリストとしては無理だろう、と限界を感じていたこともありますが

理屈抜きにアンサンブルが好き!



都立芸術高校(現在は総合芸術高校となってしまったのですが)は

本当に自由な校風で、制服はなし、校則もほとんどなし。

全校6クラスの小さな学校ですが、個性豊かな生徒ばかりで

それぞれの個性を認め合い、素のままの自分でいられる学校でした。

毎年の文化祭では、私達のクラスはミュージカルを上演、

台本も詞も曲も全て自作で、伴奏は専攻副科混合の室内オケ(私はフルート担当でした)

大道具小道具、衣装、照明なども全て生徒で行うものでした。

高3の時はさすがにCDの伴奏でしたが、貴重な経験となりました。

人生を変える出会い


そしてもう一つ、私にとって大きな出会いがありました。

私には小さい頃から「聖書を読んでみたい」という希望があったのですが

この高校には公立ながら聖書研究会という同好会があり

ここで初めて聖書を手にして、程なく教会に通うようになり

高校2年で私はクリスチャンになりました。

私の生涯を変える大きな出来事でした。



教会に通い始めてすぐに、

「教会学校(日曜学校)の手伝いをしてもらえない?」と頼まれました。

ピアノが弾けるなら、子どもの礼拝で奏楽をしてほしい、と言われ

見よう見まねで始めることに。

讃美歌の楽譜をそのまま弾くだけでは味気なく

さらに、いわゆるコード譜(メロディーとコードネームだけが書かれた楽譜)しかない曲もあるので

自分でアレンジを考えなくてはなりません。

それまで、クラシック一辺倒で、楽譜通り弾くことしかしてこなかったので

はじめは本当に単純な伴奏しかできなかったのですが

何とかコードを見て弾くことができるようになりました。



また、子どもたちに聖書の話をしたり、

分級という活動で子どもたちと関わっていくうちに

自分の中に「教育」への興味を見出しました。

ピアノを演奏するだけでなく、教えることへの意義に気づくことへと繋がりました。

受験生のころ


音大の入試では、複数の課題曲が出ます。

そして、たいてい大学によって違う課題曲が出るので

複数の大学を受けるのは大変なことです。

学校がとても遠くて通学に片道約2時間かかっていた私は

まっすぐ帰っても1日の練習時間は3〜4時間しかなく

現役時は浪人覚悟で1校のみ受験し玉砕。

練習時間確保のため、そしてレッスン(専門以外にも聴音、声楽など)にもお金がかかるので

予備校には行かず、宅浪しました。



浪人は1年までと親には言われていたので

受かりそうな所を複数受けなくてはなりません。

学費の安い国公立で東京近郊の音楽大学は一つ、東京藝大のみです。

当時、弟が私立大附属高校に通っていて大学もそのまま上に上がると思われたので

私も私立に行くことになっては親に申し訳ないという気持ちがありました。

ちょうど次の年から、東京学芸大にいわゆるゼロ免課程で専門性の高い音楽課程ができると知り、

そこを目指してみることになりました。



しかし、音大向けの勉強(国語と英語のみ)しかしていなかった私には

大変な試練でした。

芸術高校の教育課程は、3分の1が専門科目で

普通科目については全く勉強が足りず

予備校にも行かなかったので、数学などちんぷんかんぷん…

学芸大のために共通一次は5教科受験しましたが

国英以外は悲惨な結果となってしまいました。

藝大には力及びそうもないし、学芸大も厳しいし

どこにも受からず終わるのは悲しかったので、私立音大も1つ受けましたが

絶望的な気分だったのを覚えています。



結果は…

学芸大は二次試験で挽回して何とか合格、私立も受かりましたが

やはり藝大は玉砕。

でも浪人中に、教育の勉強もしたいという気持ちに改めて気がつき

どちらも学べる大学に行けるのだと意気揚々としていました。

大学でのレッスン


しかし、大学での専門レッスンは、思っていたようなものではありませんでした。

受験期師事していた先生が紹介して下さった大学でのピアノの師は

その先生の先輩にあたる方で

とても人情味溢れる学生思いの教授でしたが

体の各部分や指の使い方の指導でどうしても納得できない部分があり

レッスンの時は言われた通りやってみるのですが

「いやいや、これは絶対違うでしょ!」という気持ちが出てきてしまって

今まで教わって来たやり方に戻してしまうので

レッスンはいつも一進一退。

非常に扱いにくい学生だったと思います。

レッスンの内容も、1週目に譜読み、2週目にテンポで弾けたらおしまい、という感じで、

何のために大学に来たのだろうという思いがだんだん募っていきました。

でも、せっかく入れた大学、やめたくない…

この指導教官だった先生のご名誉のために…


先生はお若かった頃は特に歌曲伴奏の分野で活躍され

内外の著名な演奏家や、声楽家だった奥様との共演で知られていました。

かつての演奏の録音を聴いたことがありますが

それはそれは素晴らしく

特に難曲で知られるシューベルトの魔王の演奏は一分の隙もない見事なもので、

驚嘆したのを覚えています。

後に難病を患い、手が思うように動かなくなってしまったのだと門下の先輩に伺いました。

病は違えど、私も今は手指の関節の病気がありますので、

先生のお苦しみを少しは想像できる気がします。

少しでも音楽の勉強に役立てばと思い、

指揮法を習いに行ってみたりもしました。

高校の時にとても尊敬していた先生が「大先生」と呼ぶ指揮者、故村方千之先生の指揮法教室に1年通いました。

村方先生の教えてくださる指揮法は、斎藤秀雄先生の指揮法教程を基本にしていますが

さらに体の使い方に工夫がされ、独自のメソッドになっていました。

後にピアノの弾き方を変えることになった際に、この時学んだことがとても役に立ちました。

楽しみにしていた授業


大学に入った時から、私が楽しみにしていた授業がありました。

3年生になったら選択できる「伴奏法」という授業でした。

伴奏の道を目指していた私は、この授業にとても期待していました。

ここで出会ったのが、その後師事することになる蓼沼明美先生でした。

授業は公開レッスン方式、学生2人で組んで主にドイツ歌曲を演奏して

それに対して先生がレッスンしてくださるというものでした。

私の番が回って来るのはずっと先でしたが

先生の仰ることが素晴らしく、私の中のもやもやしたイメージを明確にして下さるので

すっかり心酔してしまい、毎回の授業が本当に楽しみでした。



私に割り当てられていたうちの一曲は、R.シュトラウスの「献呈」という曲で

短いながらも情熱溢れる曲です。

私が弾いた後、先生は特に何も講評なさらず

「この調では弾いたことがないけれど、ちょっと弾かせて」と仰って

弾いてくださった音の響きの豊かなこと!!!

先生は、私よりずっと小柄で華奢でいらして

尚且つ、その時は何と臨月で大きなお腹だったのです。

それなのに、音は何倍も響き、クリアで輝くような音でした。

私は図体は大きいのに、出てくるのは冴えないモゴモゴの音。

違いはどこから来るのだろう…

どうしても先生のような音が出したいと思った私は

翌年、先生にお願いしてレッスンをしていただけることになりました!

新しい師のもとでのレッスン〜奏法を変える〜


初めて先生のお宅に伺い、演奏を聴いていただきました。

先生の評価は

「音楽の流れは自然で良いと思うけれど、音色が平板。

今の奏法で弾いているうちは、その音色は改善できないと思う。」

というもので、深く納得しました。

先生は、留学先で奏法を一から学び直したそうです。

「貴方が望むなら、その奏法を教えるけれど、

容易く身につくものではなく、私は留学先で一年費やしました。

どうしますか?」と問われ、

そのために来たのだからと一にも二にもなくお願いしました。



しかし、先生が仰る通り、それは簡単にできるようになるものではありませんでした。



まず、「脱力」の概念が、それまで教わってきたものや巷で言われているものと真逆でした。

私は、肩から力を抜いた腕の重さを鍵盤に乗せる、と教わってきました。

でも、新しく教わったのは、

「腕の力は上腕で支えて鍵盤には重さをかけない」というものでした。

脱力とは、下方向にするものではなく、上方向にするということです。

これはまさに目から鱗でした。

腕は、体幹からの力を伝える空っぽの筒のようなものと教わりました。

この感覚を掴むのに、以前習った指揮法の技術がとても役立ちました。



そして、同じくらい大事なのが指の筋肉の使い方なのですが、

使う筋肉の場所も使い方も、今まで全く聞いたことのないものでした。

この感覚を掴むのにとても苦労しましたが、

先生も諦めることなく妥協することなく、根気よく教えて下さり

私が会得するまで待って下さいました。

人差し指から中指へのたった2音のレガート、それができるようになるまでに

なんと3ヶ月もかかりました。

でも、できるようになる直前に「あ、次、できる」と直感し

ついに感覚をつかんで、先生に「そう!」と言われた瞬間を忘れることができません。

嬉しかったのと同時に、

たった1つの音から1つの音へのレガートができるようになるまでにこんなに時間がかかったのに

この奏法を会得するまでに一体どれだけの時間がかかるのかと

途方に暮れる思いでした。



でも、驚くことがありました。

この時のレッスンから1週間も経っていなかったのですが

いつも伴奏をしているヴィオラの友人のレッスンについて行った時のことです。

その先生は毒舌で知られた先生でしたが、

「君、なんかあった?君、学内ではピアノがうまいって結構評判だけど

悪いけど僕は今までうまいと思ったことは全然なかったんだ。

でも、今日は違う。上手くなった。」

と仰るのです。

奏法を変える大工事は始まったばかり、まだ何も変わっていないと思っていました。

でも、わかる人にはわかる。この方法でいいんだと背中を押してもらったように思いました。



結局、大学の卒業試験の準備や、いろいろな人に頼まれていた伴奏や室内楽などをしながらでは

なかなか思うように大工事は進まず

大学卒業後も、教える仕事や伴奏の仕事をしながらでしたので

「やっと良くなってきたかしらね」と先生に言っていただくまでに5年もかかってしまいました。

でも、本当の「脱力」と「指の独立」ができるようになって

いつでも動く指、弾けば弾くほど楽になる腕となり

本当に感謝しかありません。

夢だった「ピアノの仕事」


一方で、ピアノを教える機会は、大学入学直後からありました。

母の友人に「お姉ちゃん(私)大学に入ったなら、うちの娘にピアノを教えてもらえない?」

と頼まれたのです。

当時小学4年生のお嬢さんで、学校の音楽の先生が好きになれず

音楽そのものまで嫌いになってしまいそうなので

楽しくピアノを教えてほしいとのことでした。

ついこの前まで受験生、今もまだ教わる身なのに…と思いましたが

音楽を嫌いにならないためのお手伝いができるなら、とお引き受けしました。

その後は口コミで徐々に生徒が増えて行きました。



また、在学中から力を入れていた伴奏ですが

大学卒業後は、さらにいろいろな方からお声かけをいただき

だんだんと演奏の機会をいただけるようになりました。

子育てから得たもの


初めて生徒を教えるようになってから、30年以上が経ちました。

現在、大学生になった娘と息子がおりますが

子どもたちはそれぞれ6歳から高校2年までヴァイオリンのレッスンに通いました。

練習嫌いの子どもたちに何とか練習させるのに随分苦労しましたが

決して上手ではないものの、音楽好きの子どもたちに育ち

今もそれぞれ好きな音楽の活動を続けています。

つづく…